第2回つどい/吃音児を持つ親の集い(1998年10月)
演劇「まつり」に寄せて
東京言友会・演劇サークルによる脚本家、演出者、出演者の感想を掲載します。
脚本 綾部 泰雄
中学生の私は毎朝の登校の道すがら、また今日も吃るのかという暗澹たる気持ちを繰り返していたものです。そして、逃げることも隠れることもできずにその時間はやって来てその場面に突入してしまうのでした。どうしてもっと違うことのできる私でなかったのか、もっと人間らしい生き生きした中学生が動いてもよかったはずなのに・・。
吃音者が芝居の脚本を書くとすると、一度は自分のことを書きたくなりましょう。しかし、生真面目にそのまま書いては吃音者以外には、否吃音者当人にさえ面白くはありません。他人の人生を、他人の辛さを見せられてそう感銘する筈はないのですから。芝居として演じことができ、観る人に感動を生むためには人間の普遍性に迫るものが必要です。
この芝居は吃音者が吃る場面を面白可笑しく演じます。本来苦しい辛い場面であるはずの情況をいたずらっぽく見せようとしています。吃音を<ユーモア>で乗り越えようとするのです。吃音者がこれを見たとき、自分の過去の苦々しさを想いだしながら過去の自分を慈しみをもって笑うことができるように願っています。
このユーモアの感覚は紳士の国英国の知恵と聞きます。自らのどんな苦境もニコリと笑って対処するゆとりが紳士の条件とか。受け流し、無視し、忘れるというのではなく現実に向かう人間的な強さがそこある。
吃音者は自分をまじめにやってしまいます。そうならざるを得ないのです。吃りは明らかに目の前にあるのに、まるで無いかのように振る舞ってしまう。傍目にはそれは可笑しいものになるのです。いい大人が、こっそりと本読みの練習をする。明日の報告会の内容の準備をするよりも、いかに吃らないで第一番目の音が出るか戦戦兢兢とする。どう考えても、滑稽なことなんですが吃音者自身それを知っていながらどうにもならない悲しさがある。この可笑しさに気づいて、誰かに話したりいっしょに笑いあえる相手や仲間がいたら、ともに笑い飛ばせたらどんなに楽になれることか。中学生の私に・・観せたいと、この「まつり」を書かせていただきました。
演出 高橋 良晴「どもる私と芝居」
どもる事は恥ずかしい事です。きっと皆さんもどもる我が子を見ていると、口をふさいでその場から逃げ出したくなる事が有るでしょう。
しかし恥ずかしいからといって逃げ込む恥ずかしさよりも、恥ずかしいまま恥ずかしいどもりをさらけ出して人前で話す事の方が、恥ずかしい事ではなく、かえってすばらしい事ではないでしょうか?
吃る子に、吃る事はつらく大変で恥ずかしいものだと考え込ませないようにするのも親としてのつとめではないでしょうか?『あなたはたまたま吃る特長を持った子で、何も恥ずかしがる事はないんだよ!だから吃りながらでも思いっきり、みんなと話をするんだよ!』と教えて欲しいんです。
そんな思いで私は芝居をやっております。どもりでも に感動を与え、涙を誘ったり、笑いを頂いたりする事はできます。
今回の芝居は言友会の全国大会で上演したものですが、全国から吃る連中が百数十人集まる大会ですのでまさにお祭り騒ぎです。まさにどもりをお祭り騒ぎで吹き飛ばして、どもりってたいした問題ではないよ!みんなどもりに負けずに頑張ろうよ!と言いたいような、そんな思いで、演出しました。その辺のところが皆さんに伝わっていただけるとうれしいのですが。
皆さんにどう伝わるか?ちょっと心配です。何はともあれ、後で御感想をお願いいたします。
出演
長沢 吉孝 |
私は今回の演劇「まつり」に出演を決めたのは、初めて会長の綾部さんが脚本を書いて下さるという事でどういうものになるか興味が沸いたという理由からです。実際に出演してみて、今まで演じたものとはちょっと雰囲気の異なっていた(オムニバス形式のもの)ものだったので新鮮な感じを受けました。
今回の演劇は、吃りを取り上げているという事で毛嫌いをされる方もおられると思いますが、私はシナリオを見て吃りを明るく笑い飛ばして頑張ろうという意図が読み取られて中々おもしろいと感じました。こんな事を言っては何ですが、私はひどい難発性の吃音の上に言葉の発音が不明瞭な所もあってセリフをうまく言えない時もありますが、今回は連発性の吃りの役なので「たたた……」とわざと吃って言うと逆に言葉もスムーズに出て発音も少しは滑らかになる様な感じがして楽に演じることが出来ました。 練習では、私の役はセリフが少ない分、動作を付けて表現することが多くその事で苦労をしました(私は普段の生活でも動作を付けながらものを言うのが苦手なので)。でも、合宿などを行なって何回も練習を積み重ねたおかげで本番までには何とか動作が様になってきましたが…。 私の場合は成人になってから吃音症状が現れましたので、小さい頃は言葉の発音が少し不明瞭な所があったものの吃音で苦労したという経験はありませんでした。その為、今回の役を演じても正直言いましてピンときませんでしたが自分としては精一杯、吃りで苦労するという様子を表現したつもりでした。 今日(10月25日)、皆様の前で「まつり」を演じるに当たり、果たして “まつり囃子” と “吃音” とどの様な関係があるのかご理解して頂けるか、その事が気になりました( “まつり囃子” の勢いで “吃音” を吹き飛ばそうというのが主旨ですが)。観て頂いた後のご感想はいかがですか。 私は前にも書きました通り、成人になってから吃音症状が現れました。原因はわかりませんが自分では多分、言葉の発音の不明瞭さが歳を重ねても中々よくならずその事が精神的圧迫になってしまったと思っております。言葉の発音の不明瞭さに加え吃音症状も現れた為、人と会話をすることに自信がなくなり30代になってようやく言語訓練を受けていたSTの方に紹介されて言友会に入会しました。言友会では自信を付ける為にいろいろと活動をしました。演劇サークルに入ったのもその一つです。演劇サークルに入ってもう3年ほど立ちますが、未だに演技はうまくなりません(前にも書きましたが、セリフをうまく言えない時もあるので)。それでも言友会の大会で上演して終わった後に、いつも “観客” の方々から「良くやったね」「本番に強いね」などと温かいお言葉を掛けられるので大変ありがたく思っております。 最後になりましたが、私から親御さん方にお願いがあります。ご自分のお子さんの吃音を将来の事も考えてご心配なさるのはわかりますが、それよりもお子さんに自分は吃りだけどこれだけは絶対、人に負けないというものを一つでもいいですから身に付けさせて自信を持たせる様、温かく見守ってあげてください。生意気な事を言う様ですが、これが私からのお願いです。 本日はお忙しい中、演劇サークルの「まつり」をご観覧頂きまして誠にありがとうございました。 |
苅部 淳 |
1. どんなことを期待して、考えを持って、出演を決めたか?
「期待」とか「考え」はないけど...そうだな、人に注目してもらえる「喜び」かな。 2. シナリオを見て、どう思ったか?気に入った?このせりふやりづらい?感じた事、何でも書いてください。 体験したことがストーリーになっているのは、いやなものですね。ただ、見るより演じるほうが楽しいと思います。このひとは私じゃないと思えるからね。だから、演じることに抵抗はありませんでした。 3. 練習しながら、何を考えたか?思ったか?何が、たいへんだったか?あるいは、楽しかったか? 「どうどうと吃る(話す)姿、吃れる(話せる)姿」をみて、失礼かもしれないけど、ミョーに笑えるんです。いままで口数が少なかったのは、隠していたんだ(芝居してたんだ)ってわかったからかなぁ。 4. 大勢の前で、二回演じながら、何を感じたか?いっぱい有れば、いっぱい書いてください。過去の吃音体験等と絡めて書いてくださると有りがたいです。 (とくになし、演じているのは自分ではないので。ごめんなさい) 5. 10月25日、お母さん、ことば教室の先生の前で演じるに当たり、どんなことを感じてますか? 楽な気持ちで見て欲しいと思います。こんなことで困っているんだってことをわかってくれればいいですね。それを親・子・教師・友達で、楽しく話し合えるとなおいいかなって感じます。 6. 自分の吃音とこの演劇、あるいは今までの演劇部での活動に関して、何か書いてください。 自分じゃない自分の世界がのぞけます。別の演劇でもかまいません。視野が広がるのは確実です。 7. 吃音児、やその御両親に対して、何かメッセージを! If you are a sttuter, you are best friends of mine. 悩むのは自分独りではありません。ともに考えましょう! |
成清 靖二 |
1. どんなことを期待して、考えを持って、出演を決めたか?
私にとって3回目の芝居となる今回は、いろいろ他のことが忙しいこともあり出演するかどうか迷ったが、とりあえずもう少し続けてみようと思い、出演させてもらった。 2. シナリオを見て、どう思ったか?気に入った?このせりふやりづらい?感じた事、何でも書いてください。 以前、国際大会に参加したときにアメリカのセルフヘルプグループの芝居を見た。多くの吃音者が苦い経験をした事のある場面(チケット購入場面やタクシーで行き先を告げる場面ets)を扱った劇だった。この芝居は面白かった。表情も豊かでユーモアもあった。ほんと楽しかった。 今回のシナリオを見たとき、同じ吃音を扱うテーマでも随分と違うなと感じた。吃音に対するイメージの違いなのだろうが。 3. 練習しながら、何を考えたか?思ったか?何が、たいへんだったか?あるいは、楽しかったか? 言葉ではなく動作で表現することの多い芝居だが、動作で表現するのもなかなか難しいものだなと思った。 4. 大勢の前で、二回演じながら、何を感じたか?いっぱい有れば、いっぱい書いてください。過去の吃音体験等と絡めて書いてくださると有りがたいです。 一回目は、まだ未完成だったから(私はそう思った)あまりやりたくなかった。 二回目はもうやるしかないといった感じ。 5. 10月25日、お母さん、ことば教室の先生の前で演じるに当たり、どんなことを感じてますか? 初めこの話を伺ったときは、実際の経験者ではないのでわかるのかなー?という気持ちだった。 今はどういう場面で苦労しているのかを知ってもらうという意味でいいのかなと思う。 6. 自分の吃音とこの演劇、あるいは今までの演劇部での活動に関して、何か書いてください。 私が初めて演劇に参加したのは、平成5年2月の東京言友会文化祭で上演した「金が仇、命の灯火(たぶんあってると思う)」で、私は隠居役として出演した。セリフは多くはなかったが、かなり練習したこともあり舞台上で演技をしているときとても気持ちよかった。この芝居をきっかけに演劇部ができたわけだが、私は職場を退職して一年間田舎に帰ったので発足当時のことは分からない。再び参加したのは、昨年の8月くらいからの、11月のワークショップ(全国大会)に向けての練習からです。タイトルは「カウンセラー」でした。そして今回の「まつり」と2回連続で参加させてもらっています。この2回とも、以前感じたような舞台上での気持ちよさを味わえずにいます。 7. 吃音児、やその御両親に対して、何かメッセージを!
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渡辺 恭秀 |
まつりは僕にとって初めての芝居でした。演劇をやろうと決めた理由は、吃音を治そうという目的ではなく、物事にぶつかっていく勇気を持ちたいと思ったからです。吃音である事を理由に、困難な事から逃げ回ってばかりいる自分の甘えを断ち切りたいと思った。消極的な自分を少しでも変える事が出来たらと思った。そのための手段として演劇が自分にとって、一番適しているサークルのような気がした。
まつりは吃音を笑い飛ばそうというテーマの芝居でした。吃音を笑い飛ばす事は今の僕にはとても難しい事ですが、吃音を笑い飛ばせるくらいの強さを持てたら良いと思う。笑い飛ばす事はできなくても、吃音を隠そうとしたり、恥ずかしがったり、人としゃべる事から逃げたりしない生き方をしたい。 「まつり」は吃音者を演じる芝居ですが、僕自信は吃音者を演じる事に抵抗は有りませんでした。この芝居はせりふが少ないため、身体の動きで状況を説明しなければならない事が、この芝居の難しさでした。練習しながら感じた事は、とにかく恥ずかしかった事。 僕が演じた役はいろいろですが、自身もJRの窓口で切符を買った経験はあるし、たばこは自動販売機でしか買ったことはないけれど、物を買う時に吃って言えなかった経験はたくさん有ります。店の前まで行ったけれど声を出す勇気が無くて、買う事を止めてすごすごと立ち去るとか。 切符を買えない吃音者を馬鹿にする役は、物を買う時に物の名前を吃って言えないで、店員から奇異の目で見られた自分の経験を思い出して演じました。切符を買えない吃音者を馬鹿にする役は、吃音者ではないので、切符を買う場面で吃ってしまわないか、不安でした。発声練習をする青年の役ですが、これを演じるのはとても難しく、ワークショップでは思うように演技をする事はできませんでした。矯正所のテキストを使えば必ず治ると信じて発声練習に励む青年の健気さ、母親に隠れて練習する事の後ろめたさ、それらを表現する事が思うようにできませんでした。僕自身の経験に無く、なかなかイメージが作れず、自分の想像力の貧困さもあって、役になりきる事ができませんでした。そしてこの場面は一人芝居で、一人ぼっちで舞台に立つのは心細かったです。たばこを買う吃音者の役では、わざと吃らなくちゃならなくて苦労しました。わざと吃るのは難しい。 ワークショップでの舞台をやり終えて感じた事は、恥ずかしさが有ったら芝居はできない、開き直って自分をさらけ出さなきゃいけないということか。 「まつり」の芝居では、当日になっても恥ずかしさを克服する事はできなかったし、正直言って楽しむ気持ちを持った事は一度も有りませんでした。下を向いてて芝居ができるわけないんだけれど、ずっと下向いてた。観客の顔を一度も見る事ができなかった。しかしやり遂げたという満足感は有りました。 芝居をやって良かったと今は心から思う。芝居をやった後の自分が、小さいけれど確実に変化があったと感じる。それは吃る事の恥ずかしさがずっと軽減したということ。今までの自分は吃る事が恥ずかしく、吃る事を隠そうとばかりしていた。今もまだ吃る事は恥ずかしいけれど、吃音を隠そうとせず、吃りながらでもしゃべりたい。僕がどもりである事を知らない初対面の相手には、自分が吃音である事を知ってもらうべきだと思う。恥ずかしかったけれど芝居をやり遂げた事で、少しは度胸がついたのか。 今度のつどいでは、前回の舞台よりは自分の演技が上達していれば良いと思う。そして吃音者が大勢の前で芝居をしている姿を、吃音の子達が見て、勇気を持ってくれたり、何かしら得るものが有れば良いと思う。 |
佐藤 広之 |
1. どんなことを期待して、考えを持って、出演を決めたか?
ここ数年、演劇に参加してきたのですが、前回は都合が合わず参加しませんでした。 そこで、今回はまた参加してみようと思っていました。また、転職してばかりで、ストレスがたまりがちであったので、ストレス発散の意味でも、また何かしたいという気持ちもありました。 2. シナリオを見て、どう思ったか?気に入った?このせりふやりづらい?感じた事、何でも書いてください。 演劇とは、自分とは違う性格・生き方の役を演じることで、現実の自分以外の人生を疑似体験できるものだと思っていました。ところが、今回の演劇のシナリオは、いままで自分が体験したものにかなり近いもので、自分そのものを誇張して演じることになります。そういった意味で、今回のシナリオは普通とは随分違うものだと思いました。自分の吃音体験を演じることで、それが一種の「癒し」になればいいという期待もありました。しかし、実際に演じてみたところ、あまり「癒し」といった感触はありませんでした。 3. 練習しながら、何を考えたか?思ったか?何が、たいへんだったか?あるいは、楽しかったか? 演劇の練習以外にも、いろいろと忙しい時期であったため、寝不足の状態で、練習に参加することが多く、体力的に大変でした。 4. 大勢の前で、二回演じながら、何を感じたか?いっぱい有れば、いっぱい書いてください。過去の吃音体験等と絡めて書いてくださると有りがたいです。 演じているときは、演技するだけで精一杯で、あまり何かを感じたりする余裕はまだありません。だだ、吃音者の演技をしているときは吃ってもいいのですが、吃音者でない役(たとえば、駅員)の演技で吃ってしまうと、話が分からなくなってしまうので、吃らないように気をつかってしまい、かえって吃ってしまうことが辛かったです。 5. 10月25日、お母さん、ことば教室の先生の前で演じるに当たり、どんなことを感じてますか? お母さん方にとっては、見ているのがとても辛いのではないかと思います。正直いって何のために、今回この演劇を再演するのか、その意義がよく分かりません。 6. 自分の吃音とこの演劇、あるいは今までの演劇部での活動に関して、何か書いてください。 自分自身は現在、演劇活動を一時止めています。今は、演劇以外のことに力を注いでいるところです。 7. 吃音児、やその御両親に対して、何かメッセージを! 自分自身を振り返ってみると、中学、高校時代が吃音に対して最も悩んでいたと思います。その頃は、吃音を治さなければ、全てのことができないと思っていました。 しかし、吃音でも大抵のことはできるということが、段々と(頭ではなく)身体で分かってきました。もちろん、吃音が治ればそれに越したことはなく、今でも矯正の努力をやめた訳ではありません。 |
田中 久子 |
会長が脚本を書いてくださるというので、どんな作品ができるか期待していました。渡された台本は「まつり」、そして吃音を笑い飛ばしてくださいとのこと。正直言って吃音を笑い飛ばすなんて冗談じゃないと思いました。物心がついた時から足を踏んだり、顔をしかめたり、それでも一言だけ、難発して連発して中阻するという苦しいものでした。
22歳の春、一大決心をして矯正所から案内書を取り寄せ両親にどもりを治したい旨、言いました。翌日早速、両親がその頃御茶ノ水に有った矯正所へ相談に行ってくれて、歌が歌えれば治りますよと言われたそうです。腹式呼吸、発声練習、朗読、自己紹介と先生の言われるままに口を開けて息を吸い第一声を母音化してゆっくり一言一言はっきりと言う練習で生まれて初めて住所と名前が言えました。あの時の喜びは今でも忘れません。もちろんその方法が私の吃音に合っていたのかもしれません。その後は家族の協力を得てどんなことがあっても自分に負けず自分なりに実践し、自分の吃音は自分で治すという信念でやってきました。 現在ではほとんど克服しているので、「まつり」の芝居はかえってやりにくい気がしましたが、後輩が一生懸命に演じていたので、安心して演じる事ができました。勝手なもので自分が話せるようになると相手が吃っていると聞きづらいですしおかしくも有ります。考え方、見方はそれぞれ異なりますが、自由に話せるという事は楽しいものです。 |
李 チョルギュー |
1. どんなことを期待して、考えを持って、出演を決めたか?
演じた後、人から良かったよと声を掛けられたいから。 また少しでも他人とのコミュニケーションの訓練になればとも思いました。 2. シナリオを見て、どう思ったか?気に入った?このせりふやりづらい?感じた事、何でも書いてください。 初めは単に吃音場面の繰り返しで、間に入った囃子詞はつまらないと思った。だが、台本を読み返すうちに吃音者に対するやさしさや思いやりを感じた。 3. 練習しながら、何を考えたか?思ったか?何が、たいへんだったか?あるいは、楽しかったか? うまく踊れないもどかしさ。吃る演技をして本当に吃る自分を感じた事。目一杯自分を表現するのは楽しい。 4. 大勢の前で、二回演じながら、何を感じたか?いっぱい有れば、いっぱい書いてください。過去の吃音体験等と絡めて書いてくださると有りがたいです。 一回目はギクシャク、二回目はそれなり。昔、女性に声を掛けて声が出なくて(難発)、その時、連発でも出せれば良かったなーと今思っています。 5. 10月25日、お母さん、ことば教室の先生の前で演じるに当たり、どんなことを感じてますか? 私にもし子供がいてその子が吃音だったら、私の今までの吃音体験を考えると、同じ思いだけはさせたくない、吃音にとらわれず、自分の思うまま、本当にやりたい事をやれる人になって欲しい。 6. 自分の吃音とこの演劇、あるいは今までの演劇部での活動に関して、何か書いてください。 演劇は私にとって人と関わり合う場であり、感性を磨く場。 7. 吃音児、やその御両親に対して、何かメッセージを! マイペースで話し、行動してください。 |
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