ことばの教室訪問(親御さん体験談)
小学校のことばの教室での吃音学習会に、つどいスタッフのお母さんがゲストスピーカーとして参加しました。
その際、学習会に参加のお母さん方からの質問に対して、語った体験談の一部をご紹介致します。
「吃音」自体をどう思うか?
言葉を言いにくそうにしている人がいると、「ああ、この人は言葉が言いにくいんだな」と思います。それは、足を引きずっている人に対して、「ああ、あの人は足が悪いんだな」と思うのと一緒です。
吃音という事実そのものはそれだけのことなのでしょうが、それを「変なしゃべり方」ととらえる(笑う)周囲の人、そして「変なしゃべり方」を恥ずかしいと思う吃音者本人、この2者によって「吃音」が「悪者」になっているのが現状だと思います。世の中は相対的で、多数決原理が働いています。だから、多くの人のように「滑らかにしゃべること」が普通で正しいことのようになっていますが、もし、「吃音」で話す人が大多数になったら、少数の「滑らかに」話す人は「変なしゃべり方」になり、恥ずかしい思いをするのかもしれません。
吃音自体は何でもないことなのに、それを取り巻く人間が「悪者」イメージを作り上げているのだと考えます。私は吃音児の親となることでこのことに気付けました。道のりは遠いですが、気付いた人がそれを隣の人に伝えていけば、いつかはハンディを持つ、持たないにかかわらず、みんなが理解しあって生きていける世の中が来るのではないでしょうか?
親の立場からして、自分を責めたことはありますか?
これまでの人生で「失敗」や「後悔」はたくさんあるけど「自分を責めた」経験はたぶん無いと思います。
そう答えた直後頭に浮かんだのは、『そんな自分が不遜ではないか?』ということ。『「自分を責める」ような経験は無いか?』と反芻すると自信はだんだん無くなってきます。吃音に限って言えば、“自分の子供が吃音を持って生まれてきた。あるいは育ってきた。ハンディを背負わせてしまった責任は親にあるのでは?”なんて考えだしたら、どんどん泥沼に落ちていきそうです。
ここで一旦整理するべく、「自分を責めること」とはどういうことかと考えてみました。「失敗」や「後悔」とは何が違うのか?
「失敗」や「後悔」は、「許しを請う」「誠意をもって対応する」「次に生かす」などと切り替えることで昇華できるような気がします。「責め」の場合はそれが昇華できずに自分の中でブラックホール化しているときなのかな?「取り返しのつかないことをしてしまった…」と出口のない悶々とした気持ち…
そうだとしたら、私はいろいろな形で切り替えて対応してきたので、やはり「自分を責めたことは無い」と言えそうです。
今回は吃音児を持つ親の会ですから、質問者さんはおそらくお子さんの吃音のことで、自分の責任を感じていらっしゃるのかな?と推察します。
まず、生まれるまでの話ですが、故意に吃音になるよう望む親は無いと思いますから、吃音児として生まれてきたのは母親のせいではないです。残念ながら神様の気まぐれなんでしょうね。
育てる過程では、吃音のことがよくわからず間違った対応をしていたとか、傷つくような言葉を言ってしまったとか、イライラして当たってしまったとか…いろいろあることと思います。私もそうでしたから…。
ただ、お子さん全体を一人の人間としてとらえれば、他の部分でその子のすばらしさを認めたり、才能を伸ばしてあげたり、これからできることはたくさんあります。吃音だけにとらわれてお子さんを見たり、自分がそこだけを気にしたりするとブラックホールに落ちますから、どうぞお子さん全体でみてあげてください。吃音の部分で(親として)失敗してしまったとしても他の部分でうまく育てることができるならそれでいいのではないでしょうか?
そうはいっても親も人間ですからいつでも安定した気持ちで、温かく子供に接することができない時もありますよね?そんな時は、落語や漫才で思いっきり笑うとか、一人カラオケでうさをはらすとか・・・私も一人カラオケします。最初はハードル高いですけど一度行ってしまえばなんてことない。楽しいですよ!(あくまでも個人の感想です!)自分に合った、「心をリセットできる何か」が見つかるといいですね。