吃音わが半生の記
K.U.さんからの寄稿をご紹介致します。
吃音わが半生の記
先程のつどいの説明で「言友会」というのは成人の吃音者の集まりと言っていましたが、私などはもう初老ですから、最近段々居心地が悪くなってきました。さて、私が吃音を自覚し始めたのは4,5歳の頃だったでしょうか。戦後の混乱期で、父は生計を立てるのに汲々としていて、母は夭折、兄弟姉妹は仲悪くストレスをもろに被る劣悪な家庭環境で育ちました。叔父が吃るせいか、兄弟姉妹5人の中で私と弟が吃音者になってしまいましたが(吃音が遺伝するという主旨では全く有りません)、みんな生きるのに精一杯で私の吃音を心配してくれるほど暇な人はいませんでした。
同じような吃音者でありながら、弟は吃音など全然気にせずに生きてきましたが、私は吃音が少なからず人格形成に影響を与えていると思っています。内向的で、家庭で相談相手もいない幼い私には、吃音はやはりかなり重い課題でした。今、考えてみますと、弟と私の違いは弟の吃音は連発なので顕在化し、私は難発であったので潜在化し、それがそのまま二人の性格や生き方の違いとなって現れたのだと思います。
私にとって中学高校が一番苦しく辛い時期でした、誰でもコンプレックスに苦しみ傷つきやすい思春期に、吃音の悩みなど誰に相談できましょうか。高校時代はクラス委員に選ばれても、司会を務めるのに四苦八苦し、また授業中は、どうせ指名されても読めないので、予め先生に断りに行ったり、出席番号で読ませるような授業では、当たりそうな日はずる休みをしたものでした。それは私にとって相当な屈辱でしたが、そうやって自己防衛するしか方法が無かったのです。しかしそんなに苦悩しても、親は一向に関心を示さず、幸か不幸か私はかつて民間の矯正所に一度も通った事が有りません。
大学では自己変革(?)してみようと思いまして、ワーンダーフォーゲル部と弁論部に入りました。ところが、前者は品が悪くて私のようなお坊ちゃん育ち(?)には別世界。山歩きを一度だけ経験して退部しました。後者は極右で思想的にどうも合わない。何回か大学の屋上で発声練習をしましたが、これも撤退を余儀なくされました。やはり自分の性格を考えると、学究的(?)なものの方が肌に合うらしいので、国語学研究会というサークルに入りました。このサークルは言語研究をするので、確か大学4年の時の会報に吃音の研究を発表し、自分が吃音である事を宣言(大袈裟?)したと思います。それは本人にとっては大変な事であったはずですが、女房に聞いても記憶に無いそうですから、吃音などは所詮その程度の物なのでしょう。
いよいよ就職の時期になりました。殆ど話せないので面接をすれば、不合格は火を見るよりも明らかですから、会社訪問などは絶対にできそうも有りません。いろいろと悩んだ挙げ句、前年曲がりなりにも教育実習をやっていたし、自分に負けるのも悔しいので、かなりやけ気味に教員採用試験を受ける事にしました。それも逃亡者のごとく、あるいは犯罪者のごとく、私の吃音の過去(?)を誰も知らない遠隔地に行こうと思ったのです。受験したのは北海道と、沖縄はまだ日本に復帰していなかったので、やむを得ず鹿児島県、そしておまけに東京の私立でした。私立の成績が結構良かったので、あちこちの学校から電話がかかってきましたが、初志貫徹、結局鹿児島県の奄美大島に有る名瀬中学校に赴任しました。昭和41年4月のことです。
私の個人的な事情はともかく、何しろ東京生まれの東京育ちの先生が来るというので、初めから鳴り物入りで、赴任して3ヶ月後には市の研究授業をやる事になってしまいました。理由はただ一つ、島で唯一標準語を話せる人間だからということです。当日は市の教育長をはじめ、教育会のお歴々が大勢集まりました、弱冠22歳、一時間何を教えたのか今は全然記憶に残っていません。新任の時担当したのが1年生。その翌年は持ち上がりで2年生、そして3年目はやり残した事があるという理由をつけて再び1年生。最後の年は持ち上がりで2年生。結局卒業生は一度も出せませんでした。あの頃は卒業式で生徒の名前を読み上げる自信が無かったのです。毎日毎日の授業が針の筵で何度教員をやめようと思ったか分かりません。吃って恥をかく夢を毎晩のように見てうなされたものです。
さて昨夏、28年ぶりに島を訪ねましたところ、教え子達から盛大な歓迎を受けました。どうやら私は青年教師としてまともな教育をしていたようです。勿論あの頃悶々としていた私の姿を知っている人は誰もいません。あの子達はもう45歳でみんな立派な中年になっていました。諸々の事情が有ったので、私の島の生活は4年で終止符を打ち、昭和45年、現在勤務している渋谷に有る高校に転任しました。そして早い物であれから29年が過ぎ、後10年でこの仕事を全うする事になります。今では仕事の上で吃音が障害になる事は殆ど有りません。教室で朗読もします。今年高校3年生を担任して嬉しかった事は、クラスにたまたま吃音の男子がいて、彼は吃音ゆえに他の先生から誤解されて時には叱責される事もあったのですが、吃音者同志は相手の素性に敏感で、面談で吃音の話をしたら本人はやっと理解してくれる人に出会えたと大喜びで、最後には卒業文集の編集長までやってくれました。母親は涙を流して喜んでいました。
若さにまかせて国語の教師になって30余年、毎日話しをしなければならない職業に就いた事が、私の吃音を軽くしたと思います。吃りながらでもまず話す事が肝要なのでしょう、そして転機は仕事と家庭で責任を負わされるようになった40歳代だったと思います。仕事に自信を持ち吃音も一層軽くなりました。しかし軽くなったのであって、治った訳ではありません。仲人を何度やっても、砂上の楼閣と同じで蓄積されず、吃って失敗した経験がしっかりとインプットされていてそれは永遠に払拭される事はなく、自信にはなりません。今の私は完全を求めない事にしています。話す事から逃げなければ自分を誉めてやります。後は少々吃っても人生70点でいいと思っていますので、失敗してもフ゜ラス思考するように心掛けています。そのせいか最近は吃って苦しんでいる夢を見なくなりました。吃音は私の個性の一つ。全人格のほんの一部。そう思って生きましょう。