いじめを通して「どもり」という言葉を知った
鈴木 織江さんからの寄稿をご紹介致します。
いじめを通して「どもり」という言葉を知った
私が、吃音に悩み出したのは小学校へ入ってしばらくしてからのことだったと思います。
一人っ子で両親とも忙しく働いていたせいか、近所に友達もあまりなく、大人に囲まれての幼少時代を過ごしてきた私は、同じ年頃の子供に対しての接し方が分からず、子供たちの中では引っ込み思案だったように思います。
国語の朗読の時にはじめの言葉を何度も連発したらしく、それをみんなに真似されました。自分では、全く意識していなかったので、最初は自分のことを言われていることに気付きませんでした。ようやく自分のことだとわかった時もなぜ、みんなそんな事にこだわって幾度も言うのだろうかと不思議に思いました。
話し方が変だったせいか、おとなしかったせいか、それとも服装がみんなと一寸違っていたせいか、だんだんといじめられるようになりました。それまでは、別に友達を欲しいと特に思っていませんでしたし、放っておいて欲しいのに、同じクラスの男の子達が集まってのいじめがはじまりました。女の子は直接いじめにはかかわらず、だいたいが同情的だったように思います。本当のところその頃の事は辛かったこと以外あまり記憶にありません。
いじめの内容はまずは吃音の事、教室中大合唱で、連発の真似をされました。でも、自分のしゃべりが特におかしいと思っていなかった私はあまり堪えませんでした。クラスで人気者の女の子の持ち物がよく私の机の中に入っていたことがありました。その子がなくなったと言って騒ぐと誰かが私の机の中に入っているよといって、今度は泥棒と言っていじめましたが、そんな事はいじめの一環であると教室中が判っているだろうと私は、結構のんきに構えていました。
今思うと物質的には恵まれて育ってきた私は物に対してあまり執着がなかったし、そんな事はするわけないって、全員がわかっているのだろうと鷹をくくっていました。
十数年後その時のクラスメイトが私は本当にいつも級友のものを盗んでいたと思っていたし、現在もまだそうだったと思っていると聞いたときにはちょっとびっくりしました。
初めの頃は私もまだ、弱かったので最初は泣きながら職員室に逃げ込みましたが、なぜか職員や学級担任は誰も私の話を聞いてくれずに、もう小学生だからこんな所にこないでちゃんと教室にいなさいと注意されただけでした。その後は自分のほうから教師に何か働きかけることは出来なくなりました。
いじめがピークに達したのは小学校三年生の頃だったように思います。音楽の時間、担任の先生が生徒のおしゃべりがうるさいと怒り出し、全員を立たせて反省するまで授業はやらないと言い出しました。この中で騒いでなかった者で授業を続けて欲しいと思っている人は座りなさいと言った時、友達がいない私は騒いだ記憶もなく、また他の人ももちろん座るだろうと思った私は、座ってしまいました。ところが、私のほかは誰も座りませんでした。
やだ、どうして誰も座らないのだろうと思ったときはもう遅く担任の教師は、生徒たちに一人ずつ私の前に行って授業を中断させたことを謝りなさいと言い出しました。その時間は本当にみんなが私の前に立ち一人ずつ謝ることで終わってしまいました。私も他のみんなに加わりたかった。
でも、逃げ出すことすら出来なくて、ただ、呆然とすわっているだけでした。その時から今の言葉でいう学級崩壊が始まり、わたしへのいじめが本格的になったように思えます。
野球のバットや何処からか持ってきた竹刀で私の机を叩き、いすを倒して、転がる私を取り囲んで、足で蹴ったり、竹刀で、たたいたり、髪の毛をつかんで教室の後ろに置いてあるいぼ蛙の水槽に頭を突っ込まされたりしました。それから、そのいぼ蛙を水槽から出して、顔や口に押し付けられました。そんなわけで、今でも私は蛙がとても怖い。だけれども用食の蛙のから揚げは平気でおいしく食べられるけど。
その頃の私はこぶやアザだらけだった。暴行を受けているうちに授業の開始時刻になり担任の教師が入ってきても、すぐに治まったかどうか判りません。担任の教師は私と関わり合うことを恐れていたようにも見えました。でも、私はその教師が入ってくるとホッとした。みんなの攻撃の対象がその教師に行くから。と言っても、教師に向かって誰も暴力なんて振るわない、無視するだけでした。でも、その教師が泣いて教室から出ていってしまうと、また私への暴力が始まりました。そんな苛めがいつまで続いたかは確かではありません。とにかく私に何か働きかけてくれた人は誰もいませんでした。多分かなりの精神的ダメージを受けたのだろうと思います。自分以外の周りの状況が理解できませんでした。だからこそ、今、そのときの記憶を紐解いています。
よくは判らないけれど担任の教師が言った訳ではなく、他の教師から私がいじめにあっているらしいことが家に連絡が入ったときは、母が私を自分の職場に呼び出して他の人たちがいる前で「いじめにあっているらしいと聞いたけど、どうしていじめられるのか?」と聞きました。そんな事を言われてももう考える事ができない状況でした。「いじめられるという事は、いじめられるほうにも何かしらの原因があるはずだし、責任もあるはずよ」と、そのとき母が言いました。確かに一般的な正論です。そして、私が何も言わないと周りにいる人たちに「この子いじめられているらしいわ」と言いました。そのとき、苛められている事は恥ずかしいことなんだとはじめて理解しました。「どんな風にいじめられているか」とも、そのとき母は聞きました。もう何も言えなかった。ましてみんなが聞き耳をたてていました。そのとき本当は自分のしゃべり方が変だからと言いたかった。音楽の時間のことが大きな苛めを作り出したきっかけと考える事が出来なかったし、最近まであの時の出来事は記憶の片隅に埋もれていました。自分ではよく分からないけどしゃべり方がおかしいらしい、連発するらしい、そして、それをどもりというらしい事は、苛めを通して知りました。でも、それを言えなかった。多分それが私の苛められる原因だし、責任だと思ったから。でも、なんとなく吃りという言葉は汚い卑しめの言葉であることは理解しました。
取り囲まれて、バットや竹刀で殴られていた時は、どうにかやめさせなきゃってうつろな神経で考えて出た言葉が「骨が折れる、骨が折れた」、でした。その後、直接的な苛めがなくなっても、中学3年までのその後の六年間は、そのときにいた人は、ことある度に蛙の歌の替え歌で、「おりえのうたが聞こえてくるよ、ホ、ホ、ホネガ、オ、オ、オレル」と歌われました。誰が初めに作った歌か分からないけれど、あの、いぼ蛙と掛けてそんな語呂がいい替え歌を作るなんて、凄い。その歌を歌われる度に私はその時の事と共に顔や口に押し付けられた蛙の事まで思い出し、なんとも効果的な精神的苦痛を味わいました。また、誰に聞いたのか、その替え歌の見事さに惹かれて、中学の時はそれまで見たこともない人が私の前にやってきては、その歌を2,3人で聞こえよがしに歌っていたりしたものでした。
そんな事があって、それまで意識していなかった吃音の事をだんだん意識するようになりました。、年と共に吃音に対する直接的な苛めはなくなりましたが。たとえ自分では気にならなくとも回りの人に、吃って話すと頭がおかしいと思われるのではという馬鹿な考えにとらわれて、長い間、吃音を容認する事が出来ませんでした。
吃音は本当なら簡単に治るもので、きちんと話せないことは自分の努力不足だと思っていたからこそ、吃音に悩んでいるにもかかわらず、自分自身を吃音と認めることが出来なくて苦しみました。吃音の話題は決して自分から出来なかったし、人から質問されても聞こえない振りをして徹底的に吃音に対する話題を避けました。でも本当は誰かに分かってもらいたい、誰かに助けを求めたいと心の中では切望していました。しかし、自分からそれを働きかけることはどうしてもできませんでした。
私の家族は、私の吃音に対して私に意識させないためか見ない振りをしてきました。親自身が子供の吃音に対して容認することが出来ていなかったように思えます。そして、そのせいか親に対して本当の意味で心を開くことさえもできなくなってしまっていました。一人っ子で、親が事業をやっていた私の家では吃音であるにもかかわらず、跡取としての期待というものがあり、そのプレッシャーもかなりありました。私自身もその期待にこたえるために、早く大人になるまでには吃音を治し、何百人もの前でも物怖じしないで話せるようにならなくては、と考えていました。そんな焦りもあり、どんどんと自分の吃音に悪い意味で囚われていたように思えます。
そんな私がようやく自分の吃音を認められるようになったのは、子供が出来てその子供が吃り出したことがきっかけです。結婚して妊娠したときはまだ吃音を容認できていなかった私は中絶することさえ考えました。だからこそ、その子供が吃音になった時は恐れていたことが本当にやってきた恐怖にかられました。自分のようにさせてはならないと思い、そのためにはまず私がこれまでの私から脱皮しなくてはと思い、まずは自分が吃音だと言うことを自分の中で認めていこうと考えました。
はじめて吃音に関して私の話しを聞いてくれた北里大学付属病院のST(言語療法士)の方には今でも感謝の気持でいっぱいです。STと吃音に関して話をすることで少しずつ自分の吃音を容認できるようになり、初めの一歩を踏み越えることが出来ました。そして、言友会に入り、同じ吃音者の方々に会うことが出来て勇気を得られました。
はじめて吃音を認めようと思ってから2年が経ち、今では吃音に対して全く囚われることがなくなってきているように感じます。自分の周りの人にも吃音の事を抵抗なく話すことが出来、吃音を容認する事で、日常生活においても吃音によって支障をきたすようなこともなくなりました。「たとえ吃っても、これが私のしゃべり方、流暢でなくてもいいじゃない」、と自分に対しても他人に対しても吃音を引け目として感じなくなりましたそんな中で、子供の吃音はなくなり、子供が私の話し方についてなにか言うようなことがあっても、「ママはそうゆう話し方をする人で、誰でもきちんと話せるとは限らない、急に話しにくくなることだってある」と堂々と説明できるようになりました。
今では、吃音のおかげで学べた事とも多くあったことがわかり、吃音でなかったら今の自分がないのだから、自分の吃音に感謝しています。
今、吃音に悩んでいる中高生の方々に吃音に関して話をすることで、少しでも役に立てることがあったらすばらしいことだし、吃音に関して誰にも相談することも話をすることも出来なかった私は、話を聞くことで、お役に立てたらいいなあと思っています。
吃音児の両親の方々には、子供の吃音を治して欲しいと考えるのではなく、子供が吃音であることを容認し、吃音について深く理解して欲しいと思います。そうすることによって、子供自身が吃音である自分を容認していく助けになるのではと私は考えています。