私の中学校時代
佐藤 隆治さんからの寄稿をご紹介致します。
私の中学校時代
中学校の頃、どもりどうだったかな?つらかった?つらくてつらくてどうしようもなかった?うーん、よく思い出してみよう。そして今の自分を見つめて重ね合わせてみよう。今の自分にとって、中学校の頃のどもりって、どんなものだったのだろうか?
それほど、つらくはなかったのでは?いやいやそれは、はるかはるか過ぎ去った今思うからこそ、そんな事言えるだけなのでは?よーくじっくり振り返ってみよう。
中学時代のどもりで一番ハードな体験はまず何だったろうか?一番ハードといっても、とりあえず思い付く順に書いていこうか?
一つはこれかな?中学一年の時、座って読むとすらすら読めるのに、手を挙げ、立って読むと、声が思うように出ない事の辛さを、じーっくりと認識せざるを得なかった事か?
家でも練習してきた。授業の鐘が鳴り、先生が教室に入ってくるまでの時間も、小声で練習した。おまけに内容は、好きだったトロイの木馬の遺跡について一節。内容が好きだったし、進んで友達と競い合うように、手を挙げた。ひょっとしてつっかえるかな?いや、好きな内容だから、大丈夫だろう、とか思いながら。
国語の先生は元気に手を挙げる生徒が大好きだ。私が当たった。さあ、読むぞ!
うん、うん?あれ?うーむ。やはりか。最初の音からつっかえるぞ。いや、少しつっかえるくらいなんだ!ええい、僕はこの本の内容が好きなんだ、かっこいいと言ってもいいような歴史の内容だ。さあ読むぞ、なにくそ。さあ読むぞ。うーーむ、しかし、つっかえつっかえで、なかなか前に進まない。こうよくつっかえるとやはりつらいな。少々だけど恥ずかしいな。でも僕はどうしてこんなにつっかえるんだろう。家では、上手に読めるのに。こんな状態で、僕は将来、大きくなっておおぜいの前で大事な発表をしなければならない時、どうするんだろう?前の日に、何十回といくら練習してもだめなのに、どうしたらいいんだろう?こういった機会をずっと逃げ通して生きていくのか?ああ、そんな人生つまらない。そんなんじゃだめだ。僕は、自分が書いたものは、堂々と読み上げたい。
ああそうだ。僕は今、みんなの聞いているところで、手を挙げて本読みしているのだから、ある程度きりのいいところまで読まないと、だめだな。当てた先生も困るだろう。つっかえながらも頑張って読むか。
もうここらへんで勘弁してといった雰囲気で、区切りの良さそうな所で、ぼくは息をついた。自分で手を挙げたにしては、少し読む量は少ないが、先生もわからないわけはない。僕が今何故に苦しそうに、辛そうにしているのか。はい、そこまで、といってくれた。佐藤はつっかえずに読める時が有る、むしろその方が多いのを知っているので、今日は特別、調子悪いんだなと、わかってくれたんだろう。そう。つっかえずに読める時も有る。最初の話し出す言葉はひどーくつっかえても、すぐにか、しばらくして、すらすら言葉が出る時。最初からちっともどもらない事だって有る。また発表の内容に、とても自信が有る時。こんな難しい事、答えられるのは僕だけだろうと、うぬぼれてる時。反対に、全く自信の無い時、これはもうおどおどしちゃって、ひどくどもる。この落差が、私は当時いやだった。どもりを隠れみのに、ひょっとして無意識のうちに使っているんじゃないかと、自分が卑怯な人間なのじゃないかといやだった。答えの分からない時も、少しくらいおどおどして、少しくらいつっかえるのなら仕方ないが、まるで自分が分からない事をみんなの前に見せるのが嫌なので、それをどもりでかくそうとしてるのじゃないかと。
手を挙げる時に、予期不安、ひょっとしてどもっちゃうんじゃないかな?という事が少しでも、頭の中に浮かんでしまうともう、その時は、必ず、だめ。そしてこの予期不安にはどうやっても負けてしまう。予期不安が起きないようにと、念じてみても、頭を振ってみてもぜんぜんだめ。ますます不安が増大してしまうだけ。どもりのこういった発生メカニズムは、当時自分でも、分かっていたが、手立ては見当たらなかった。今だったら、“にこにこしながら、そうだね。あるがままに、だね。ありのままに、事に当たる事だね。”とやさしくアドバイスできるだろうが。
当時、既に50代の大ベテランの先生。私のどもりについて、授業中、何のコメントもされなかったが、私の気持ちは分かってくれていたように思う。私がいずれなんとか乗り越えるであろうと黙って見守っていたのかな。ゆったりとしていて、懐の広そうな先生だった。今思えば、こんないい先生がいたんだから、少し相談のような事を持ち掛けても良かったかもしれない。
着席して、いろいろと考えた。ああ、練習した時と同じように、読めたらなあ。どうして、読めないんだろう。練習した時の70%くらいの出来でもいいから、どうして読めないんだろう。どもりだから仕方ないのか。仕方ないのか?ううーむ。自分のどもりを否が応にでも見据えた時、これはつらかった。しかしこれが出発点なんだろう。目をそらさないで、自分や将来について考える。しかし、たいそうに言っても、将来に対しての、漠然とした不安が少し、まあそのうち、何とかなるだろうという気持ちがほとんどだった。“どうしたら、いいかわからない時は、仕方ないから、どもりについて楽観的に考えて、まずやるべき事をやる。どもりであっても、やれる事いっぱい有るでしょう。まずそれをやりなさい。いっぱい有るでしょう。あれもこれもできない?いやそんなことないよ。できないように一見、見えても、本当にやれない?やる方法はいくらでも、考えれば出てくるんじゃないの?”と今だったら、当時の自分にアドバイスしていたかもしれません。
どもりの真似をされた事がやはり一番、いやだった。今真似されても、もうさほど腹は立たない?いや場合によっちゃ、腹の立つ場合もあろうが、そんなに一生懸命真似てご苦労様といったところか。
英語の授業で、本を読んだ。“We are …”というところを、“ウウィ、ウィーアー”と読んだんだろうか。連発型で。ぜんぜん読めないのとは違う。つっかえながらも一応、発音は間違いなく読めるるわけだが。すると、私がつっかえた所だけとって、“ウィ、ウィ、ウィ”としつこく、耳元で言うではないか。何かことある毎に、私をいじめたくなった時になのか、口うるさく言うようになった。それを言うのはせいぜい2,3人の特定の根性の腐った(?)、言葉悪いが、人格的に卑怯で、たいしたことない人間なんだが(少し言い過ぎ)、あまりにうるさいのでいやだった。本当にいやだった。(でもそこで私がいじめられてたわけだが、どもりでいじめられたのはこれくらいか。いじめは他の理由だった。まじめで硬いイメージといったところで、結構いじめられた。嫌だったが、学校には行くの止めようとは決して思わなかった。授業が大事だと考えていた。
どもりのいじめに対して、私は、ほとんど無視を決め込むか、せいぜい鼻であしらっていた。うるさいとかくらいは言ったが。暴力を振るう事はまず無かった。その勇気が無かったといったほうがあってるか。それは中学二年の時だが、担任の先生はどうだったか。英語の、30代の女性の先生。“こらー”と怒ってくれた。女性の先生だが、精一杯、頑張ってくれた。感謝している。この先生も特に、どもりについて直接的な、アドバイスは無かったが、いろいろと目をかけてくれた。その子達に、私が嫌がっている事を止めさせる事はできなかったが、頑張ってくれたと思う。そりゃ、もちろんやめさせられてたら、楽しく、どもりに関しては、のびのびと生活できていただろう。そりゃ、すばらしかったろう。ばら色の中学時代だったかもしれない。でもそこまで、要求しない。無理だったんじゃないかな。“つらいだろうけど、頑張んなさい。私も同じだったよ。君には、いいところが他にいっぱい有る。あのいじめっ子が、びっくりするような。そこを伸ばすように頑張りなさい。でもとてもつらいだろう。よくわかる。でもいじめをすぐに無くすような手立ては何も無い。君が空手や少林寺を習ったりする事はないだろう。それより、なぜいじめられるのか?それはいじめっ子たちと、君の間に、彼らにとって理解できない溝が有るからだよ。その溝がどんどん深く広がっていっている。例えば、休み時間、一緒に校庭でサッカーしたりしてみてご覧、一緒に、ボールを追いかけたりはできるだろう、君は足は速いから。そうしているうちに、彼らの見方が変わってくるんじゃないかな。何か、一緒にできるスポーツが有ればいいんだけど。でもつらいときはいつでも、話しにおいで。”
私は、二年の前期、学級委員をしたが、学級会の司会は苦手だった。言葉がつっかえるから、苦手という事もあったが、むしろ、クラスのまとめ役、みんなの気持ちを把握するとか、察して、先生に掛け合う(?)とか、積極的な事は、ほとんどできなかった。そういったことは、クラスの中で人気の有る、慕われる人物がやるべきで、私のような引っ込んでいたい人間にはとても荷の重いものだった。ここでは、もうどもるとか考えてる余裕はなかった。どうやって、このゆううつな学級会の時間を乗り越えられるか、みんながなんとか意見を言ってくれて、それらしく終えられるか、そういった方に気が行くためだ。つっかえたりしながらも、何とかやっていた。
しかし、今考えてみると、これは自分の幅を広げるいい試練ではあった。自分の一番苦手なまとめ役といったことを試してみる機会。自分にはあまり向いていないとやってわかっただけでも収穫ではないか。また向いてない場合、どうすれば少しでも進むのか、考えるいい機会にもなった。
またどもりの観点から見るとこれはとてもよかった。つっかえながらも、逃げないでやるべき事はやる。いやかもしれないが、何とかやり切るといった姿勢、生き方(?)を体で覚えられたかもしれない。こういうのは、人生に対しての姿勢だ。女性のクラス委員の子と一緒に前に並んでやるわけだが、彼女もあまり好きな時間ではなかったかもしれないが、彼女なりに精一杯協力してくれた。その頃は、まだクラスの異性の前でどもる事に対しては、さほど、高校時代と比べて、意識する事はなかった。
“そうだよ。それでいいんだよ。良くやった。どもりというハンデをもって良くやった。そして、いろんな勉強ができた。逃げないでやった事で。”
先生に関して言えば、総じていい先生が多かったように思う。どもりの事でいやな思いをした事は、先生との関わりの中ではなかった。いい学校だったのか?
中学一年のときの音楽の先生などは、私のいい面をよく捕らえてくれ、また先生としてうまく教育にも生かされてたようにも思う。例えば、他校からの先生がおおぜい、参観に見えられたとき、確かシューベルトについて調べてきなさい。それを発表してくださいといったものだったが、先生は意図的に、私を指名された。人名辞典で調べてきていたので、困る事はなかった。しかし、読み始めるとやはりつっかえる。すると先生はかまわない。ゆっくりでいいから、落ち着いて読んでご覧と、やさしくおっしゃられた。音楽の指導には厳しい先生が垣間見せてくれたやさしさ。ぼくは落ち着いた。肩から、フワッーと余計な力が抜けた。魔法にかかったかのように、どもらずに読めた。まあ、家で読むときはこんな感じで読めるんだが。その後、先生は他校の先生方に言った。“佐藤君のような緊張してしまう生徒には、ゆっくり読めばいいんだからと指導しております。“突然教室の雰囲気がとってもヒューマンなものになったような気がしました。反応の豊かな女性の先生などは、眼を輝かせながら(?)、大きくうなづかれているのがわかった。
その音楽の先生には、ほかにも大きなすばらしいものを中学時代にもらっている。
それは、コーラス部への勧誘である。
ご多分にもれず、我が校も、男子生徒がコーラス部に入って、歌の練習を女子に混じってやるというのは、非常に奇特な行為であった。女声コーラスは盛んだが、混声合唱はやりたくてもやれない。女声コーラスが非常に優秀なため、なおさらその思いが強かったのでしょう。放課後は、私は当時いちおう水泳部という運動部に所属していた。それほど上手ではなかったが。放課後は来なくてもいい、昼休みだけでいいから、歌を歌いにおいで。まあ昼休みだけなら、別にかまわないだろう。勉強にも差し支えない。昼休みはどうせ、運動場か、教室で遊んでいるだけだ。外にいるときはいいが、雨で教室にいるときは、つまらないいじめっ子から逃れる事もできるし。
通ってみると、これが結構面白かった。毎日通った。大きな声で歌うという事はいい事だ。外で走り回る事もいい事だが。楽しい。大きないい声が出るようになってきた。歌う事にとても自信ができてきた。今までは、歌のテストとなると、小さくなっていたのが、別人のように堂々と歌えるようになる。毎日少しづつでも続けるというのは偉大な事だ。最初にピアノに合わせて、ご存知のように発声練習から、“ア、ア、ア、ア、ア、ア、ア、アー”と始めるのだが、このせいかどうかは知らないが、国語の本読みも楽になったような気がする。歌というさらにもう一つ得意なもの、大好きな趣味のようなものが昼休みに通うだけで、ほとんど労せず手に入れられた事もあったのだろうか。なんとなく自信ができた。歌に目覚めさてくれた、この先生には、感謝したい。女性に比べ男性が極端に少ないため、非常に大切にしてもらえた。かわいい女の子もおおぜいたので、いやじゃなかった。楽しかった。
“そうだよ。君に得意なもの、あるだろ。何か一つは、必ず有る。それを大事にするんだよ。それやってる時ってとても楽しいだろ。それをずっーとずっーと長く続けていくうちに、そのうちなんとなく君の自信につながっていく事と思うよ。根気良く続ける事が大事だよ。何か自信がついてくれば、君はきっと変わる。自信といえば、簡単だが、その自信は君がこれから臨む大きな人生全体への自信にまでつながっていく可能性も有る。そうなったら、どもりなんてとても小さなものに見えてくるよ。”こう言ったろうか。
ところで、親との関わりについてはどうだったろう。
父親には相談しなかった。その前に、身近な母親と話すことで、中学時代は充分事足りたような気がしたから。母親は、それなりに少し心配していた。が、基本的には、何とかなる。たいした事はないといった考えだったようだ。確かに中学時代はそうだったと思う。高校時代は大変だったけど。私は、学校ではどもる。しかし、家ではぜんぜんどもらない、といったどもりの症状だった。だから、両親はほとんど、私の苦しみについて、良く理解できなかったのは仕方が無い。ほんとにぜんぜんどもらないのだから。家では完全にリラックスできて、のびのび言いたい事、言えてた。
しかし私は家に帰って、学校でつっかえてつらい事を母親に訴えた事は何度かあった。母親はそれなりには聞いてくれた。しかし家ではぜんぜんどもっていないんだから、辛さが分かるわけはない。分かってくれないのでいらいらした。どもりという醜いイメージのものにはなるべく関わりたくない。いや関わらずとも、たいして気にせずとも、充分やっていけると考えていたのだろう。緊張したら、誰だって少々つっかえる事くらい有るんだから、そんなに気にしなくてもいいんじゃない。慌てて言おうとしたら、誰だって言いにくくなるんだから、ゆっくり言えばいいんじゃないの。といったアドバイスをくれた。なるほどその通りには違いなかった。しかしひどくどもってる時、強い予期不安が有る時、ゆっくり読もうと自分に言い聞かせても、あまり役に立たない。パニックになってしまった場合、自己のコントロールが効かない。無駄。よって親には、辛さが分かってもらえない苛立たしさが有った。しかしそれも仕方なかったのだろう。
高校時代と比べて、中学時代は、全体的に、さほどどもりで悩まずに、暮らせたのではないかと思います。直接的にどもりについてアドバイスされる事は全く無かったが、先生方がよく理解してくれて、見守ってくれて、自然な形で、いい方向に行ってたように思います。